院長紹介
医療法人桜光会 理事長 あおば歯科クリニック 院長 |
1984年3月 獨協大学外国語学部ドイツ語学科 卒業 1993年3月 国立東北大学歯学部 卒業 1993年4月 秋田県医療法人明和会 中通歯科診療所 1995年3月 医療法人 仁明会 新狭山大橋歯科医院 2005年6月 狭山市 あおば歯科クリニック 開院 2007年1月 医療法人桜光会 設立 理事長就任現在に至る |
院長ヒストリー
幼少時代
新潟県 新潟市でこの世に生を授かりました。
父は今はJRになりましたが昔の国鉄職員、母は元をたどれば上杉謙信の配下だった武士の末裔で山形県米沢市が実家の、歯科とは全く関係のない両親でした。子供心にも家は裕福ではなかったと思います。けれど内職をしながらも私に幼少期からピアノや油絵、そろばんなどの習い事をさせて、我が子の将来を案ずる母親でした。当時の新潟市は高度経済成長期の真っただ中だったとはいえ、まだ自然も多く残っていました。国鉄官舎の隣のお兄ちゃんと近くの小川でザリガニを捕まえたり、フナを釣ったり、母の思いとは裏腹に野外で遊んでばかりの子供でした。大人が信濃川で大物を釣り上げているのを見て、勉強よりも、いつかは僕もあんな大物をと妄想する幼少期でした。
少年時代
中学生になっても相変わらず勉強はせず、部活動のバスケットに熱中していました。
3年間二軍のベンチを温めていましたが、初めて親友といえる友達ができたのもバスケで3年間苦しい練習を一緒に乗り越えた仲間だったからでした。
中学校卒業時に英語塾の恩師がデールカーネギーの「道は開ける」にある「黎明へのあいさつ」の詩を朗読してくださいました。この時この詩にいたく感動し、その後、デールカーネギーの「道は開ける」は座右の書となりました。
歯学部入学
獨協大学でドイツ語を学んだ後、憧れの東北大学歯学部に入学。
共通一次試験は英語ではなく、ドイツ語で受けさせていただきました(笑)。
最初の獨協大学時代は普通に親のすねをかじっていました。国鉄職員だった父親からすれば学費と毎月の仕送り等で大変な苦労だったと思います。
東北大学では入学費用から6年間の勉学資金、生活資金すべて自分で賄いました。ですから2度目の大学生活は勉強とアルバイトで毎日充実した日々でした。幸い、授業料は最初の半年分だけ支払い、残り5年半分は全額免除していただきました。この時はさすが旧帝大と思いました。奨学金も3つも貸与させていただき、6年間両親に金銭的な迷惑を一切かけることなく卒業することができました。
歯科医師になって
東北大学を卒業後、秋田県の病院で研修を積みました。
この病院の歯科は東北大学の先輩が所長を務めており、一緒に入局した同級生ともども大変歓迎されました。
現在の診療スタイルもここでの診療システムが基礎になっています。中通病院では大変貴重な経験を積ませていただきました。
ほぼ口腔外科と根管治療(歯の根っこの治療)だけをやらせていただいたのです。特に根管治療は、歯科治療の中でも大変難しく、よく私のような新人に治療させてくださったなと、今でも大変感謝しています。診療が終わると毎晩、マネキン相手に練習をしました。それこそ1000本ノックではありませんが、1000本根治みたいでした。実は研修医時代にあまり患者さんに感謝された記憶がありません。おそらく口だけを診て、人を診ていなかったんだと思います。体のひとつのパーツとしての口だけを治していたんだと思います。人を診るところまでいって、お口の健康を保てるということがわかるには自分自身のこころの修行も必要でした。研修医時代は1日も早く一人前になりたいという思いから、午後の診療が終わるとすぐに、別の病院へ無給で勉強を兼ねて診療に行ったりしていました。日曜日も勉強と他流試合を兼ねてアルバイトをしていました。
当時、根の治療については良き指導者に恵まれ、治癒するということが分かりました。しかし、歯周病については北海道大学を出た尊敬する先輩も治らないと患者さんに話しているのを耳にしていました。私自身も、治ったように見える患者さんもいれば、治らない患者さんもいるという状態で正直よくわかりませんでした。
飯塚哲夫先生との衝撃的な出会い
そんな研修に明け暮れていたある日、同僚の先生が、医局にあった歯科雑誌を、こんなのがあるよと教えてくれました。それが、飯塚哲夫先生が主催する近代口腔科学研究会の雑誌でした。読んでみて驚きでした。それまで自分が購読していた商業雑誌とは似ても似つかない装丁と内容でした。東北大学歯学部に入学してから考え続けていた歯科医療とは何かという疑問が氷解しました。
歯科医療とは歯を削って物を詰めたり、歯を抜いて入れ歯やブリッジ、インプラントなどの異物を入れたりすることではない、一生自分の歯で健康でいられるようにするのが歯科医療の究極の目標だと教えていただきました。そしてさらに、飯塚先生は歯周病は治ると断言されました。
院長を任されて
その後、現在の狭山市広瀬の開業地から数キロ離れた柏原で10年間院長として診療所を任されることになりました。ここでの目標は歯を抜かないということでした。歯科医であればあまりにも当然といえば当然の目標ですが、歯科医院に通い続けていても歯を抜かれるという現実に正面から取り組みました。虫歯よりも歯周病で抜かれる歯のほうが多いという事実があるのですから、そのためには歯周病を治さなければならない。歯周病を克服するために日々診療に取り組んでいました。
開業
あおば歯科クリニックを設計するにあたり一番に考えたことは病院にするということでした。
飯塚先生の歯科医療観を知ってしまった私にはもはや中途半端な設計ができなくなっていました。
そこで必然的に、尊敬する飯塚先生の口腔研クリニックに少しでも近づけるように、手術室、歯内療法室、回復室などを備えた病院を作りました。これは両親からの金銭的援助を一切受けなかった私にとってはチャレンジの一つでもありました。
こうして新狭山大橋歯科医院で10年間苦楽を共にしてきたスタッフと共にあおばが平成17年6月15日にスタートしました。オープン初日は、患者さんが何人来てくださるのか、正直不安な気持ちでした。結果は、以前勤務していた医院からお子さんひとりを除いて全員来院してくださったのです。その後も少し遠方になったにもかかわらず、ほぼ全ての患者さんが私どものあおばに継続して来てくださるという大変ありがたい結果になりました。これも10年間真摯に患者様に向かい合い、一本でも歯を残そうと努力してきた姿勢が評価されたものと考えております。
これからの想い
「先生と出会えて良かった」「あなたと出会えて良かった」と患者様から言われることが私たちあおばのスタッフの幸せでもあり、励みでもあります。
これからもお口の健康を通じて患者様に幸せを届けていきたいと思います。