副院長ヒストリー
幼少時代
内気、恥ずかしがりやだけど、本を読むのが好きで、じっくり考える女の子でした。しかし、田舎の子供らしく夏は山、川、畑を駆け回り、冬は雪で遊んでいました。夏休みの宿題をせず、残り4~5日でまとめてやった時もありました。
おばあちゃん子で祖母にたくさんの事を教わりました。散歩道の土手から今は世界自然遺産となった白神山地の一端が見えるのですが、残雪に光る遠くの山並みを見るのが好きでした。
仕事で父が家を空ける時間が長かったため、数ヶ月ぶりに父が帰宅するという日を心待ちにしていた記憶があります。また幼馴染と帰宅後に遊ぶのが楽しみでした。小学5年生のころ、日本海中部地震発生しました。強烈な揺れ、グラウンドの地割れ、崩れたブロック塀。遠足中の小学生が津波被害に遭い、大勢亡くなったのはとても記憶に残っています。
少女時代
中学生になってからは、バレーボールが好きでバレー部に入りましたが、いじめが嫌で一年で退部しました。その後は図書館で本を読む生活でした。家庭科の授業で「幼児のおもちゃ製作」という課題に、円錐形が的の輪投げを布で作ったところ、仕上がりを褒められ、参考例として陳列棚に飾られたこと。それを「ふだん数学を学ぶ成果がこういう形で現れるんだよ」と数学の先生にも褒めていただいたことが、意外でうれしかったです。
高校生の頃は自分の存在理由など考えブルーになる青春時代。生きるとはどういうことか、宇宙の壮大さに対する自分の小ささを想い、うつうつした時期がありました。科学部で副部長をしていました。チェルノブイリ原発事故後、日本海側の放射線量が高い事実をデータ化しようと「河川の放射能測定」というテーマで採取してきた水の放射線量計測をグラフ化し、理科研究発表会に参加しました。高校卒業後も同じテーマが継続されていると伺っており、先輩としてうれしい限りです。
歯科衛生士になるため専門学校へ
父は一人親方の大工、母は三児の母親になってから看護師になった努力の人でした。そういう両親を幼い頃から見て育ちましたので、自分も手に職を持とうと思っていました。母に勧められて歯科衛生士という職業があることを知り、歯科衛生士になろうと決意しました。入学試験のときに気が合い、話を交わした方も入学していて、楽しくなりそうだという予感に心が弾みました。
入学後は初めはのほほんと過ごしていました。しかし看護師をしていた姉から、「私がもう4年学校に行けるくらいのお金がかかっている」と言われ、その時初めて「勉強する」という事の意識が変わりました。そしてそれを支えてくれている両親にも、私に気づきを与えてくれた姉にもとても感謝しました。
また先輩の卒業式に列席した際、成績最優秀者が理事長賞を受賞しているのを見て、同じ卒業するなら私も受賞して親を喜ばせたいと思いました。これまで赤点を取らなければよいという考えから、少しでも多くのことを覚えたい身につけたいという勉強の姿勢に変わりました。
卒業時、努力の甲斐あって理事長賞を受賞することが出来ました。両親、姉みなとても喜んでくれました。私の生まれて初めての親孝行でした。
国家試験のときは当時厚生大臣免許に移行して二年目ということで、過去問などはほとんどありませんでした。そのため教科書のすみからすみまで、総ざらいしました。同級生たちと教え、教えられで支えあいながら、クラス全員合格を目指しました。
合格したときは、これで両親に恩返しが出来ると思いました。卒業までの二年間に多くの費用がかかっていましたので、これから社会で一生懸命働いて、支えてくれた両親に少しずつでも返したいと思いました。
歯科衛生士になって
歯科衛生士になってからは、自分ができることを一生懸命やっていました。最初の2年間はドクターも衛生士も大勢いる総合病院の歯科でした。ここで基本的なことを学ばせていただきました。その後、狭山市柏原の新狭山大橋歯科医院に勤務しました。「代わりのいない人間になりたい」という想いで勤めていました。
新人の頃「あなたではよくわからないから他の方に代わって」と言われた事があります。お口の型どりが何度やっても上手くいかず、患者様に苦しい思いをさせたこともありました。自分の知識のなさ、技術のなさの何もかもが情けなくて、昼休みの屋上で一人悔し泣きを何度もしました。先輩に聞きにくい事も、同期入社で経験年数のある方に教えていただいたり、悩みを聞いてもらったりしていました。
その後、向き合う患者様の健康を取り戻してさしあげたいという気持ちは年を重ねるごとに強くなっていったと思います。スキルアップするにつれて、仕事が楽しくなってゆく感じでした。歯科衛生士4年目のとき、印象的な出来事があります。
看護師の患者さんがいらっしゃいました。いつも前向きな方だったのですが、ある日リュウマチを発病してしまいました。満足に歯ブラシも持てない状態まで悪化。可能な範囲でのブラッシングを、と考えお話ししていたところ「そうは言うけど出来ないよ!」と言われてしまいました。指導する側として患者様の体調も考えながらお話をしているつもりだっただけに自分の配慮不足を反省させられました。
精神が人を動かすこともあれば、出来ることも出来なくする。それだけ心のあり方は人の行動を左右するとよくわかった出来事でした。
この方は二十年経った今も、定期的に来院して下さり、リュウマチの病状は一進一退ですが、前向きでマイペースな元のお姿にもどって頑張ってお口のケアーをされています。
定期的にお見えになる患者様が笑顔で「おかげさまで変わりないです」と言って下さることは本当に嬉しいです。これまで私たちのやってきた事が患者様のお口の健康につながっていると実感する瞬間、この仕事をやってきてよかったなあと思います。
私が未熟だった時代からのお付き合いの患者様から「あなたが担当してくれると安心」という言葉を言っていただけたときは、成長を認めていただけたような気がしました。
これからの想い
あおば歯科は「抜かないといけない」と言われた歯を根管治療して助けること、「抜いてインプラントにするしかない」と言われた歯周病を治すことを大切にしています。患者様の立場に立てば「抜かずに治したい」、そんな当たりまえの希望を持ち、あおば歯科なら何とかしてくれると紹介され、当院の門を叩いてくださった、たくさんの皆様と真摯に向き合って今日まで参りました。
「抜かずに治せてうれしい。ありがとう」という言葉と患者様の笑顔がうれしいのは、ドクターも衛生士も受付もみんな一緒です。これからのあおば歯科に必要なのは、患者様の笑顔を創り出すのに欠かせないチームスタッフのパワーだと考えています。衛生士は私にとっての天職だと自信を持って言えます。私が今日までやってこられたのも、周囲の指導や支えあってこそ。
これから歯科界を担う歯科衛生士達が、夢と希望を持って輝く自分を創り出す手助けをすることが、私のつとめだと思っています。そして私のように幸せなチームスタッフが、一人でも多く生まれるよう支えてゆきたいと思います。それがひいては、あおばに来院される患者様の健康と笑顔を創り出し、医院の発展、スタッフの幸せへとつながると思うのです。私たち一人ひとりができることは限られていますが、チームが一丸となることで、一人でも多くの患者様の笑顔を創造したいというのが私の願いです。